2009年12月22日
こんにちは。
師走もあと10日ほど、何かとお忙しいことと思います。
今週は有馬記念がはじまった1950年代、
大衆レジャーのあり方が大きく変化していく中での
名馬とホースマンのお話を中心にお届けしています。
きのうは第1回有馬記念を勝ったメイヂヒカリと
力道山とともに日本プロレスを興す一方、
明治座社長として大衆演劇の発展に尽くした
新田新作オーナーのお話しをしました。
さて、話は有馬記念の後日談になります。
当時のレース体系では天皇賞が勝ち抜け制で
ここと有馬記念を勝ってしまうと
出るレースがないという事情もあったのでしょうが、
メイヂヒカリの完成の域に達した強さを確信した藤本富良調教師は
新田さんの跡を継いだ
奥さんの松江さんに海外遠征を提案したそうです。
敗戦により中断された
日本の航空会社による国際線運航が再開されたのは
わずか2年前の1954年のことです。
海外遠征という概念すらなかった時代だと思います。
通算1339勝と史上3位の実績を残す藤本調教師ですが、
その先見の明、進取の気象には驚かされるばかりです。
しかし松江さんはメイヂヒカリに
単なる競走馬以上の存在を感じていたのでしょうか、
亡き夫の葬儀にまで参列し、第1回有馬記念を勝つなど
最高の供養をしてくれた愛馬を引退させる道を選びます。
日本馬による海外遠征プランは挫折したかに思えました。
ところが日本ホースマンの夢は失われていませんでした。
前年は古豪メイヂヒカリの前に経験不足を露呈して5着に敗れた
ハクチカラと保田隆芳騎手が第2回有馬記念を勝った後、
戦後初のアメリカ遠征を実現したからです。
ハクチカラを管理していた“大尾形”こと尾形藤吉調教師は
ダービー8勝などJRA通算1670勝の名伯楽です。
トップトレーナーとトップジョッキーが送り出したトップホースは、
ハリウッドパークからデルマー、サンタアニタへと転戦し、
11戦目のワシントンバースディHで遂に勝利を収めます。
日本調教馬が66戦43勝の強豪ラウンドテーブルなども出走していた
海外の一流レースを勝った瞬間でした。
1959年のことですから、ちょうど50年前になります。
力道山の空手チョップ、ハクチカラの勇敢な挑戦が
どれほど日本人を元気づけたか、頭の下がる思いです。
きょうも来てくださってありがとうございます。
馬券の金言名言を集めた『知恵の言葉』はきょうが最終回。
長い間のご愛読ありがとうございます。
またご協力いただいた東邦出版の皆さまに感謝します。
機会がありましたら続編をお届けしたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。