2009年12月21日
こんにちは。
いよいよことしのフィナーレ有馬記念です。
ご存じのように有馬記念は中山グランプリのレース名で
1956年に第1回が開催されました。
考えてみると1950年代という時期に、
日本のレジャーのあり方が大きく変わったと思います。
掃除機や電気釜など家庭電化の急速な進歩が、
人々に余暇の時間をもたらすようになったのも一因でしょうか。
“第1回”がやたら多いのが50年代の特徴です。
50年の第1回ミス日本に山本富士子さんが輝いたのを皮切りに、
ざっと上げても、プロ野球の日本シリーズ、
紅白歌合戦、モーターショーなどのオンパレードです。
この時代に相撲は年6場所制になり栃若時代がはじまり、
日本シリーズなどで人気が盛り上がってきたプロ野球は、
ONが揃った59年には遂に天覧試合を実現します。
レジャーの重要性が広く認識されはじめた時代でした。
そんな中で力道山を擁して日本プロレス協会を設立し、
柔道家・木村政彦との死闘、シャープ兄弟との伝説の激闘で
敗戦に打ちひしがれた日本人を勇気づけたひとりが
大衆演劇のメッカ・明治座の社長も引き受けていた新田新作さんでした。
新田さんは馬主でもあり、若き日の大川慶次郎さんを
競馬秘書として雇っていたことでも有名です。
いまで言えばレーシングマネジャーでしょうか。
その新田さんが愛した馬にメイヂヒカリがいます。
彼は2歳時を朝日杯を含む4戦4勝でおえ、
クラシック候補の最右翼に評価されます。
しかし故障で春のクラシックは棒にふることになります。
使いたがった新田さんを、
「先を考えたら休ませるべきだ」
と大川さんが説得したというエピソードが残っています。
メイヂヒカリは秋に復帰し菊花賞を制し復活します。
大川さんのアドバイスが功を奏したというべきでしょう。
年を越しても天皇賞・春を勝って新田さんを喜ばせます。
しかし新田さんは間もなく不帰の客となってしまいます。
この一代の風雲児の葬儀には多くの関係者とともに
愛馬メイヂヒカリも参列したといいます。
そして迎えた第1回有馬記念(中山グランプリ)、
馬主名義は奥さんの松江さんに代わっていましたが、
勝負服はそのままのメイヂヒカリが1人気に押され、
実力どおり見事な弔い合戦で最高の供養になりました。
きょうも来てくださってありがとうございます。
今週は有馬記念のちょっといい話をお届けします。
どうぞよろしくお願いします。